泥亀 けんぞう のページ

東京都国分寺市住民訴訟原告のブログ、   私物化された市政を正す

東京都の児童虐待防止条例について

 

 昨晩、近場の温泉に行ってきました。 リフレッシュです。

 温泉は大好きです。ウチの市にもひとつは欲しいところです。

 さて、これはその温泉のサウナで聞いたニュースですからごく最新のもの。

 

 東京都が都条例を可決したということです。

 それが「児童虐待防止条例」。

 

 

 法的な問題という視点から、これについて、ちょっと解説というか解釈をしてみます。

 

 なんでこんな条例が必要かということです。

 子供を殴ってたら警察沙汰が当たり前です。親でも怪我させれば傷害事件。親としての資質に疑問があればひとまず児童相談所とカウンセラーが親について聞き取りをする。

 こういう流れは普通のことに思えます。児童を行政は保護できますし、それこそ深夜に徘徊していれば交番に連れて行くことだってできます。

 暴行されている現場で警官がそれを見て取り押さえないわけがありません。それが親子でも。

 行政には安全と命を預かる職責があります。

 

 それなのに、ではなぜこんな条例が必要なのでしょうか。

 

 

 この本質というのは、実は役人側の問題なのです。

 彼らを守り、そして彼らが速やかに執行を出来るようするのが本来の狙いです。

 こんな条例が今までなかったからと言って、担当職員が何もしてなかったということはほとんどない。むしろそちらの方が例外です。

 

 

 国民や市民、都民を守るのが行政の仕事ですから、担当の役人はこういうことを現行の法律や行政権限の中でもやってゆくことが出来ていました。

 それが本来の姿なのです。

 

 しかし、この条例の必要を考えさせる事件が最近もありました。

 

 どうも父親に虐待されているらしいというので児童相談所が乗り出した。

 市役所も間に立って、どういうことがその家庭で起きているか調べようとした。

 相手は子供ですから傷つけないように行政が配慮もしたのでしょう、そして「アンケート」という形で家庭内で父親からどんな扱いを受けているか書いてもらった。

 この「アンケート」を娘が書かされたというので父親は役所に乗り込みます。そのアンケートを見せろと、娘が書いたものを父親は見る権利がある、などなど。想像に過ぎませんが、役所側が父親に強く要求されたことは難くありません。

 基本的人権だとかプライバシーとか、色んなことを言って怒鳴り込んで娘の書いたアンケートを見せるよう要求した。容易に想像がつきます。

 結果、渋々と役所はこれを父親に見せてしまいます。

 

 後日、その娘は父親から激しく暴行を受け死亡。

 父親は送検されています。

 

 

 行政はなんでこんなことをしたのか。

 この担当役人は懲戒処分となりました。反省の会見もありました。

 なんでそんなことをしてしまったのか。

 娘にプライバシーがあると突っぱねることはできなかったのか。なぜ虐待の疑いのある父親にそんな娘の訴えを書いたもの見せるようなことをしたのか。

 後悔は先には立ちません。

 

 

 今は役所の権威が落ちています。

 昔なら、それこそ役所の職員から指導でもあれば普通は市民は言うことを聞いていた。

 それが今は権利だ自由だと、何でも押し込め要求する。

 強く要求されれば役所は拒めない。なかなか言うことを聞いてくれない。その趣旨が分かってもらい協力してもらうということをしてくれない。

 そうなると、相手がどんな相手でも、こういうことをタテにされれば言うことを聞くしかない。それが現場職員の悩みです。

 

 法や条例の後ろ盾があれば、もっと守れる。

 それがなければなかなか指導やお願いができない。無理やりな主張に対して家庭内で何が起きているかを知ることが出来ない。まず子供の安全がと心配しても役人は無力では何もできない。

 

 それがこの都条例可決の背景なのです。

 「条例ができる前は行政は何もやってなかった」

決してそんなことはありません。

 「条例を作ることでより子供を守りやすくする」

それが本件条例の趣旨なのです。

 

 

 今の時代「法律や条令にないんだから」なんて言われてしまいます。虐待の疑いがあっても、あれこれ言われてしまうのです。

 

 法律と言うものは「書いてないからやっていい」ということでは本来はない。野球やサッカーのルールとは違う。

 それが「禁止させたいなら法律に書いておけ」などという開き直りさえされるようになってしまった。

 

 事件はまだ公判前ですから、あくまでこれは想像に過ぎませんが、そして娘の虐待の告白を呼んだ父親は激昂した挙句に娘を暴行したのでしょうか。

 

 悔しいことですが、そういうところに今の時代は来ているのです。

 

 ここには法治主義ということを考えるヒントがあると言えます。