泥亀 けんぞう のページ

東京都国分寺市住民訴訟原告のブログ、   私物化された市政を正す

「法廷侮辱罪」

「法廷侮辱罪」というのがあります。

 そんなことを考えます。

 

 アメリカ・イギリスでは厳格に運用がされているものです。

 

 それは法治主義を守るため、法廷の権威を守るためのものです。

 裁判を受ける側がその裁判制度そのものに対して敬意を持てるようでなければ、判決も法も、全く意味がありません。

 

アメリカ合衆国憲法修正第五条

 「何人も自分に不利な陳述については法廷で拒否することができる。」

 

 陳述そのものを拒否する権利です。「ノー」と言う必要もないという権利です。

 

 

 アメリカでは、この修正第五条の権利をいったん放棄したと見なされ、法廷に臨んでいながら、言葉を翻して陳述を拒否したりすれば法廷侮辱罪に問われるといいます。

 

 「五年はくらう」のだとか(笑)。

 

 それほど権威というのは大切なものなのでしょう。

 法廷に真面目に向き合わなかったと「見られる」だけで罰を受けるのです。

 一度陳述するような態度を見せながら、他で拒否することは五年の実刑だというのです。

 

 

 しかし日本ではどうでしょう。

 日本では法廷で直接の実力行使などについての規定は「法廷等の秩序維持に関する法律」としてあるようです。

 しかしこういう、裁判に臨む態度について罰する規定はありません。

 

 しかも、法廷で騒いで法廷侮辱罪の適用を受けたとか、暴れた被告に刑が加算されたなんて話さえ聞いたことがありません。

 

 

 

 あるいは偽証罪というのものがあります。
 これも日本では適用されたのは極めてマレです。

 


 つまりこれまで、日本の司法、裁判所は自らその権威を維持するよう努力してこなかったということです。

 日本の裁判所は、訴追する役目は検察の役目だとタカをくくっている。

 裁判所は判断をするだけだと決めている。

 つまり法の運用責任を避けているといわざるを得ない。

 

 だから法廷侮辱罪や偽証など、裁判所は検察が訴追しなければ判断すらしようとはしません。


 判断するのはあくまで訴状に書いてあることだけと、自分たちが無責任である状態を放置しています。

 裁判の場で、真実や法の趣旨本来を積み上げてゆこうとする意思はそこにはありません。

 あくまで法律により判断するというだけです。

 

 だいたい、「踏み込んだ判決だった」なんて言われた最高裁判決にしても、結局はそれは理由だのなんかで主文とは関係がないところに書かれているだけのパスフォーマンスでしかありませんでした。

 

 無責任もはなはだしいのです。


 要するに腑抜け、腰抜けなのです。

 彼らには「法を守る気概」というものが全くないとしか言えない。


 そのくせ「自分たちは法律に基づいてジャッジするだけだ」などと、開き直っている。

 踏み込んですることをしていないのです。

 法律の趣旨を歪めるような事実については何も判断をしようとはしません。

 

 法律の趣旨を没却させるような事態について、司法制度の運用、その責任を果たすべく判断しようとはしないのです。

 


 これが、結局は今のように訴訟が政治利用されるようになったこと、政治利用される司法に成り下がった原因と言えると思います。

 

 日本の司法は弱腰どころではない。

 責任を避け、人々の目線から逃れようとするだけ。


 法廷侮辱罪はあくまで法廷でのことです。

 公人としての裁判官をいくら批判しようがコキおろそうがそんな法律は適用できません。 それこそ、表現の自由に関わることです。

 だからこそ、裁判所は、自らの権威を守るために積極的に動かねばならないはずです。

 

 今回の住民訴訟について言えば、被告である市が言葉を翻したりノラリクラリと子供のような釈明をしたり、挙句には裁判中にその裁判事態を覆そうと議会と現市長が結託して債権を放棄しました。

 

 そのような態度について裁判所は看過すべきではありませんでした。

 

 そもそも、このような住民訴訟とは何か、裁判所はそれを理解していたのか。

 

 住民が市の利益のために訴えた住民訴訟において、被告である市がこれに相反して抗弁するという矛盾について裁判所が正しく理解しているとは言えません。

 

 原告は裁判でも指摘していますが、住民訴訟はお互いが真実を明らかにするために形は被告と原告に分かれているというだけです。

 

 でなければ、司法は私物化された市政というものを前提として判決するという誤りを犯していることになります。

 


 厳粛な法廷の場を穢すことに対し、神経質にならず、身をもって示さない法廷など怖れるに足りません。

 


 裁判所の権威、威厳の維持。

 これを日本の司法はまるでしていないとしか言えない。

 だから足元をみられて政治利用されてばかり。

 

 野党だの左翼だの反日勢力が裁判を使って世の中を捻じ曲げようとするのに利用しようとする。

 どれも極めてご都合主義的な訴えでしかない。

 

 政敵をおとしめたいがため、単に政権転覆をやらかしたいがため、ただ体制に歯向かって見せたいがために行われる愚劣な訴えがあまりに多い。

 

 その証拠に、同じケースが他ではなぜか無視される。

 

 誰も訴えなど起こさない。

 しかし別な場合には、これは大問題ではないかと、わざとらしく特定勢力が別な目的をもって訴えるのです。

  

 純粋に法治主義を尊重し、司法に参加しようなどという人はいないのでしょうか。

 告発はすべてなんらかの動機によって行われています。

 


 そうした司法の政治利用を司法はただ看過してきました。

 

 「日本の司法は墜ちた」、それを言うのであれば、裁判所が判断を避け、司法判断をしてこなかった怠慢について言われるべきでしょう。

 

 

 結局、その一番の責任は最高裁最高裁裁判官にあります。

 

 子供でも分かる判断を避け、法の運用をしようとしないのですから。