司法は何を判断したのか1.(控訴から)
さて、先日の記事はやや脱線気味だったかも知れません。
要は、「裁判所は権威を守らねばならない」、ということ。
裁判所が司法判断から逃げてしまうことはその権威を傷つけることになる、それが先日の記事の趣旨です。
つまり司法は「法による支配」という原則のために「司法判断を積極的にすべき」必要があるということです。
それは高裁がすべきでしょうか。
一審は事実認定から判断をしています。
高裁は法の趣旨に照らしての判断となりますが、今回の住民訴訟で判決に踏み込むべきは最高裁だったでしょう。
それが結論です。
「日本の最高裁はそうしたことに及び腰ではないか」
これはよく言われることです。
さはさりながら、日本も法治国家であることには変わりはありません。
私は未だにそれを信じようとは思っています。
これから、今回の判決はいったいなんだったのか、どんな意味があったのかという、判決の本質について少しお話してゆこうと思います。
そろそろ時期としては頃合いだと思います。
動いているものについて影響を与えるようなことはしたくありませんでした。
今回の住民訴訟で司法がした判断について解説を試みてゆこうと思っています。
結局、一審では星野前市長への求償権が認定され、星野前市長は国分寺市に4億5千万円の弁済義務があると判断されました。
一審は事実審と呼ばれます。
事実があったかなかったか、請求すべきがどうかが証拠により立証され判決されるものです。
そして星野前市長は国分寺市に損害を与え、その支払い義務があるとされました。
それは結局、控訴審、高裁判決でも否定されることはありませんでした。
しかし、原告の請求は棄却されたのです。
それは国分寺市が星野前市長に対する債権を放棄したことにより、本件住民訴訟で争われているはずの債権がもはや存在しなくなったというのが理由です。
国分寺市は一審判決を受けて控訴し、当初、高裁は一審判決を支持する方向で裁判は進んでいきました。
しかし、事態は結審の前に変わりました。
一審判決を覆すべく、議員と現職の市長らが結託し、適当な理由をつけて議決をし、星野前市長への債権を放棄したと裁判所に通告してきたのでした。
この措置はあまりにあからさまで性急なものでした。
急いで現市長までが執行にまで及んでいたるのですから、それは明らかに司法に影響を与えようとした前代未聞の措置に他なりませんでした。
原告はこれに対し、どう抗弁したか。
原告は裁判所をとことん追い詰めることにしました。原告は高裁が判断から逃げるようなことをしないよう、先回りして様々な角度から立証と主張を行っています。
市側の行った債権放棄について、司法を脅かすものだとし、その違法と無効を主張しただけではありません。
すでにこのようなことが無法であるとの指摘は最高裁に意見書として出ていたものであったからです。
原告は今回の債権放棄が無効だとしても回復できないものがある。
最高裁で度々出されている意見書はこうした行動を抑止できなかった。
今回のような事態については裁判所が判断を示し、こうなった現状を回復させる判決を出す必要がある、そう迫ったのでした。
実はこうしたことについては最高裁千葉裁判長がわざわざ想定して繰り返し、異例なほど意見書を出していたことです。
それにも関わらず、国分寺市はやってしまった。
千葉裁判長がこれを懸念をして再三に渡ってクギを刺していたのに。
そんなことをやる議員や市長がいるなどと最高裁は想定もしていなかったのかも知れません。
これほどまでにあからさまに司法を無視するような自治体がいるなどとは想定は出来なかったでしょう。
では高裁はいったいどうするのか、それが原告の主張でした。
本来はこのような「裁判所を追い込む」ような立証をしたり、「裁判所に逃げ道を与えないように先回りする」という態度は、原告はしてはいけなかったのかも知れません。
まず司法手続きとして順を追って、いちいち手続きをすべきだったかも知れません。
それは馬鹿馬鹿しく、冗長ですが、いわば「司法の顔を立てる」ようなやり方です。
司法を追い詰めたりすることは禁物で、司法が判断をせざるを得ないよう、司法判断から逃げられないような主張をすることは裁判所が嫌がるとされています。
考えられる手順としてはこうです。
まず、我々原告はこの議会と市長による債権放棄の執行の無効や差し止めを申し立てます。
これに対して国分寺市は行政裁量として有効であると平然と争うことでしょう。
司法の場で債権の存在が争われている最中でありながら、「債権があったとしても放棄する」などとすることは適当でしょうか。
これが争いになるはずです。
つまり原告は訴訟を新たに起こすことになるわけです。
そして長い時間をかけていくうちに、今回の住民訴訟と訴訟の「併合」というあたりでしょうか。
しかし、今現在争っている訴訟をなきものにしようとしたことに対して、それをもって、また別な訴訟を提起するなどは全く馬鹿げています。
無限にこんなことが起きかねません。
司法は手続きとしてこんなことを許すのか。原告は疑問を投げかけています。
また、訴訟を提起する原告側の負担もあります。
原告はその馬鹿馬鹿しさについて想定し、子供にでも分かるようにあけすけに高裁に対してこれを指摘しています。
そうして無限に本件住民訴訟関連の訴訟が続く可能性すら指摘し、その想定されることを想定しないのは愚かであるとも仄めかしています。
高裁はこれを読んでひどく立腹したことでしょう。
しかし誰に立腹すべきなのか?
こんなことをやらかしたのは司法判断をなきものにしようとした国分寺市の無法な連中なのです(笑)。
ともかく、原告は裁判所が判断から逃げることがないよう、とことん主張をし、裁判所に判断を迫ることにしました。
今回の住民訴訟で全てを片付けるのです。
言い逃れや裁判の「飛ばし」など許さない。それが原告が決めた方針でした。
よって原告は、債権放棄を無効とするか、あるいはもし今回の債権放棄を「行政の裁量権」だとしてそれを無効としないなら、この債権放棄が法的に正当だと成立しなければならない、と主張しました。
行政が司法判断を侵害しようとしたということにもならず、行政の独立性を侵害することもないよう、法的な正当性を成立させねばならない、と。
そのように原告は裁判所に迫ったのでした。
すなわち、
議員と市長ら全員によって債権の引き受けがあった、
と認定せよ
よって国分寺市は議員と市長らに請求せよ、
という主張です。
裁判所はどっちにしても、債権放棄されたことに向き合えというのが原告の主張の本質でした。
どうせ三権分立と言いながら、裁判所は法廷侮辱罪など適用する度胸もないのです。
だからこそ債権放棄が適法か違法であるか判断すべきだし、司法判断をきちんと見せる必要があります。
千葉裁判長の意見書があるのにこれを適法と出来るわけはありません。
逆に、もしそうした判断を避けると言うなら、今回の債権放棄には手続き上の瑕疵がある、よって債権放棄が適法となるような判決を出せ、と主張しました。
つまり、国分寺市が星野前市長に行った債権放棄は法的に宙ぶらりんだったのです。
市長経験者と言えども市民の一人にすぎません。
巨額の債権の放棄をして利益供与を行うようなことは裁判中でもあり、適法な理由があるとはできません。
判決が「星野前市長へ請求せよ」と確定して、それから債権放棄をしてもよかったのです。
ところが市長と議会は判決に影響を与えようとして債権放棄をしています。
その理由は、「彼ら議会と市長が星野前市長の債務を引き受けた」という以外に理由とはできないのではないか、というのが原告の主張でした。
「免責的債務の引き受け」という判例があり、原告はこれを援用して主張したのでした。
原告はわざわざそのために訴訟費用を追加して裁判所に払い、議員ら全員へ「訴訟参加」の手続きまでしています。
もはや今回のことで国分寺市の財政に傷をつけているのは現市長と現職の議員らも同じであり、裁判の当事者であるからです。
つまり、議員らが「どうせ議決だけだから関係ない」などとタカをくくっていたところへ、「請求させるかもしれないよ」という裁判所からの通知が来たことになります。
その慌てようは見ものでした(笑)。
法などお構いなし、市政を談合の馴れ合いでやってきた連中が突然に、裁判所からの特別送達を受け、被告になったのです。
まあ、正しくは「被告」ではありませんけれども(笑)。
実際に何人かの議員らは傍聴に来ています。
私はしらばっくれて声さえかけました。
「よくわからないんで・・・」なんて議員もいた。
呆れた話です。わからないことになぜ賛成したのか。
もちろん、この件で市民に説明などありません。
木で鼻をくくったようにシレッとして「星野前市長には功績がある」などと放棄したのです。
民間企業の営業を露骨に妨害し、損害を支払わせられるような違法行為をしておいて、それを正当であるとあくまで言い張っているのです。
議員らを訴訟参加させたことは裁判所からは拒否されませんでした。
高裁はこれを裁量によって棄却することもできました。
つまり裁判所は本件住民訴訟での星野前市長への請求について、議会議員と市長が関与していることを認めたことになります。
それについてどう判断するかはともかくとして(笑)。
こうして高裁のトンデモ判決へとつながってゆきます。
※ 続きます