司法は何を判断したのか2.(高裁判断)
最近、閲覧する方が少ないので更新をなかなかしていませんが、このブログにリンクされているように、原告として四号請求について「法的な内容」について記録したブログはあります。
法の手続きのコツみたいなものが分かると思っています。
さて、今回はそこで阿倍先生の話を紹介したことについてお話をしようと思います。
それは、多くの住民訴訟を弁護士として手がけられておられる法曹界の「巨人」とも言える先生が、こう漏らされていることです。
「住民訴訟という徒労のようなことを一生懸命して、市の財政の是正のために立ち上がった裁判は高裁のトンデモ判決でいとも簡単にくつがえり、上告しても最高裁からは『上告は特に憲法判断が争われたり取り沙汰するべきとは認められない』などという無味乾燥な判決で棄却されてしまう。」(意訳)
先生はだいたいそんなことを話されています。
私は控訴したときから、阿倍先生が多くの住民訴訟を闘われてこんな慨嘆をされたことを知っていました。
しかしそのことは実際、「どうかな」、と思っていたのです。
高裁がトンデモ判決をすることには理由がないのだろうか、最高裁にむしろ最終的な問題があるのではないか、と。
実はこの考えは今も変わりはありません。
高裁は理由があってトンデモ判決を出しているのではないか、と、それが結論です。
日本の裁判制度は三審制と言われています。
地裁、高裁、最高裁というものです。
しかしそれは「常識の嘘」であり、裁判制度はスリーストライクなんてものではないということはよく言われます。
敗訴しても高裁があり最高裁だってあるじゃないか、それは嘘です(笑)。
しっかりと地裁から事実が争われ判決が出る。
だから高裁ではそれを踏まえて法的判断というものが改めてされ、その解釈が司法として確定的にされるのです。
最高裁に至っては、憲法に反したり高裁判断が間違いだったような「よほどの場合」でなければ取り上げない。
だから、裁判は三回あるなんて思ってはいけない。三審制はタテマエである。
そういう言い方が一部ではされています。
確かにそれは事実です。
ほとんどの弁護士もこういう言い方をします。
しかし、私は逆説的ではありますが、やはり日本の裁判制度は「三審制」なのだ、そう思ったりもするのです(笑)。
どこで判決が確定しようとも、地裁、高裁、最高裁という三段階の建て付けの下で司法判断が成立するのではないか、と。
そして、高裁には「最高裁に上げるかどうか」、そういう役割があるのではないか、と。
まず、高裁に、なぜトンデモ判決が多いかということを考えてみます。
今回の私たちの住民訴訟も、まさしくトンドモ判決でした。
高裁は、一審判決の事実を指示し、わざわざその判決について加筆修正すら行っています。
それでいながら高裁の判決は信じがたいものでした。
債権は議会と市長によって放棄されているのだから消滅している、よって争うことはできない。
そして棄却となりました。
こうした逃げがあることは原告としては実は予見していたことでした。
だから予め先回りさえし、原告はそのような判断をすることによって起こり得る問題についても指摘しています。
すなわち、「やったもの勝ちとなり司法は無視され、行政の馴れ合いでなんでも通ってしまう」と警告したのです。
しかし、高裁は原告の主張を一切取り沙汰しないどころか、「やった者勝ちになってしまう」と原告が指摘したこと、そのような状態を高裁は是認した判決をしています。
つまり、今回の債権放棄は正当なものと言えるのか、あるいは逆に原告の主張は当たらないとするのかどうか、高裁はまるで判断を示さなかったのです。
高裁が判決したことはひとつだけです。
すなわち、「債権放棄」という「事実」があり、そのために債権はなくなってしまったので原告が言っている弁済請求は成立しない、と。
つまり高裁は、原告が主張した、今回の債権放棄議決が適法であるか違法であるかについては判断を示していないのでした。
まさにこれも原告は主張していたことでしたが、高裁は「やった者勝ちになる」ということを看過しながらそのまま判決したのでした。
なぜなら、「今そこにある事実」は、「議員らと市長によって星野前市長に対する債権が放棄された」ということ、だからです。
つまり高裁は国分寺市議会が債権放棄をしたという、「事実認定」だけを判決をしたことになります。
★ これも実は不思議な話でした。
事実認定は通常、一審で行われることとされます。
そうであれば高裁は本来なら今回の新しい事実について認定させるため、一審に差し戻して改めて事実認定を争わせてもよかった。
まあ、債権放棄の執行をしてしまったのですから意味はないのかもしれませんが。
わざわざ高裁は、「債権放棄がされた」という事実認定だけを行いました。
原告はその違法性を指摘していますから、それはおかしいものです。
高裁はそこには踏み込みませんでした。
それとも、日本の司法制度では、
1. 星野前市長へ請求せよと裁判をする
2. 債権放棄が違法であると裁判をする
3. 放棄したことで請求しなくてよいかどうかを裁判する
なんてことをしろと要求するんでしょうか。
違います(笑)。
高裁判決は「放棄したことで債権は消滅している」としています(笑)。
放棄すると債権は消滅するのかどうか、裁判での判断をすることなく、高裁は「消滅した」と、判断しているのです。
★ ともかく、高裁判決には法の趣旨に基づくような判断はありませんでした。
「債権が放棄された」という事実を認定し、それだけをもって、今回の住民訴訟は争われる債権が消滅しているので棄却する、と判決したのです。
そこで冒頭の阿倍先生の慨嘆に立ち戻ることになります。
やはり高裁は引退を目前に控えた裁判官がトンデモ判決をしてしまう、そんなものなのだろうか、と。
私はこれだけの証拠と事実、そして千葉裁判長の意見書がありながら、高裁の判断があまりにも馬鹿げた「やった者勝ち」を認めるような判決であったことには一定の理由があったのだと思っています。
意外と、三審制なのではないか。
それが私の印象ということです。
高裁が例えばどんな判決をしたらどうなるか、それを考えてみます。
1. 債権放棄の議決は違法で無効。
放棄をすでにしているので、財産の飛ばしは行われてしまっているかも知れません。これを資産隠しとすることはできません。回収は不能かも知れません。
また、この判決をすれば「行政権に司法が干渉した」ということになります。
2. 債権放棄は適法で有効。
あまりこれを言ってしまえば千葉意見書、つまり最高裁の判例や意見書を傷つけることになります。
こういうやり方をすれば市長は何をやっても弁済しなくてもよいと、誰もが同じことをやることでしょう。
私物化された市政はやりたい放題、どんな違法行為でもやってしまえます。
だいいち、住民訴訟という法律の趣旨を全く違えることになってしまいます。
3. 議員らに支払わせよ
原告はこれも主張しましたが、こんな判決は出せるはずもありません。
また請求された議員らはゴネて個別に争いが拡散することになります。
高裁がこの判断から「逃げた」のは当然かもしれませんが、ではこのカネはどこへ消えたとしているのでしょうか。
彼らが司法に対する挑戦にそこまで及び腰というのもまた笑い種です。
結局、高裁はわざわざこんなトンデモ判決を出すことで、最高裁に判断させるように投げたのではないか、それが私の印象です。
なぜなら結局、議員らと市長が結託して星野前市長へ利益を供与した、巨額の債権を放棄したという「事実」しか高裁は認定していないからです。
こうしておいて、最高裁に判断すべきことだと判断の責任を回し、高裁判決は上告することを想定した上でこんな判決を出したのではないか。
司法としての最高判断をすべきは最高裁であって、高裁ではないからです。
しかも判例で何度も千葉裁判長の意見書が出ていました。
これに違反しているかどうかを判断するのも最高裁であるべきだ、としたのではないか。
だから、わざわざ、高裁は上告せざるを得ないような判決を書くしかなかった。
高裁の判決は、それほどなんらかの最高裁判断がされねばならないような宙ぶらりんな判決だったのでした。
その必要があったのかも知れません。
つまり高裁は最高裁に判断を投げたのです。
私はそう思っています。
もちろん、司法制度としては高裁が「これは判断は最高裁に送るべきものだ」なんて、そんな判決は出せません。
そういう意志を示したものが、高裁でよく出るトンデモ判決の意味なのではないか。
そういうことではないのか。
私はそう思っています。
しかしもちろん、これは我々原告が最高裁に上告しないで断念すれば終わってしまいます。
そうなっても高裁は傷つくことはありません。
なぜなら高裁は事実認定しかしてませんから、「トンデモ判決で法の趣旨や解釈を間違えた」なんてことにはなりません。
今回の判決は、我々が高裁がきちんと判断せざるを得ないほどとことん追い詰めた高裁はまるで判断を示さず、事実認定だけに逃げてしまったように見えますが、実は高裁にはその理由があるのかも知れないということです。
そうなると、原告にも上告する努力が必要という前提があることになります(笑)。
なんだかボランティアにしてもあまりに負担が大きいのですが・・・w。
いい加減にしてもらいたいとは私たちの立場からは思いますが、裁判の「三審制」ということを考えると分からないではありません。
高裁の判断ではなく、今回の債権放棄については最高裁が判断すべきでした。
逃げたのは最高裁でした。
原告が主張するように、住民訴訟を意味のないものににしようとしたり、行政が法に基づいて執行するという原則さえ歪められた状態が国分寺市の政治の現状です。
これを適法な現状とするためには、なんらかの判断を最高裁は示すべきでした。
もちろん違法として判断をしてもよかったのですけれども。
原告はそのための解決策を提示しています。
その解決策とは、議員ら全員による星野前市長への債権の負担です。
それ以外には放棄した事実を元に戻すことは大変なことになります。
原告として、それは不可能かも知れないとまで言いました(笑)。
放棄が執行されたとたんに星野前市長が一族で資産を隠すなどしても罪には問われることはないからです。
そういう法の抜け道を裁判所が自ら用意してしまうのでしょうか。
ともかく、最高裁へ判断を送るためだったから、今回の高裁の判決はトンデモ判決ではなかったかというのが振り返っての私の印象です。
もちろん、実際のところどうかは分かりませんが、ともかく、高裁のよくあるトンデモ判決というのは最高裁に判断させようとするためのものではないのか、それが私の感想なのです。
今回は最高裁は取り沙汰しませんでしたが、そのために一定の事実認定は残ってしまいました。
すなわち、星野前市長に対して「債権放棄が行われた」という事実です。
もちろん、その債権は地裁、高裁でともに認定されていて存在していたものです。
さて、どうなるでしょう(笑)。