法治主義の果てに
結局、本件、住民訴訟の裁判は最高裁で棄却になり、ここに判決は確定しました。
債権放棄がされたという事実によって争う内容が消滅した、その一点によって本件裁判は終結してしまったからです。
この債権放棄ということが適法であったかどうかも、地方公共団体の財政の毀損を回復するべきという原告の訴えについても、司法は触れませんでした。
私どもとしては、司法が、このように異常なほどに馴れ合った議会と現職市長の「闇」について踏み込んだ判決をしてもらい、地方自治について正常化させるということを願ったのですが、どうやら違った方向で終結せざるを得なかったのかも知れません。
最高裁はやはり馬鹿ではない。
高裁判決にしても、その判断したことには結果として意味があったということです。
私どもは愚かにも、この意味に気付くには時間がかかりました。
こうして考えると、やはり我が国で司法というのは機能している、そんな気がしてなりません。
法治主義と言うものの「バランス」というのはあるのだと、つくづく感心します。
やはり三権分立ということは貫徹されているのだと言えます。
詳しくは、まだもう少し後のことになるかと思いますが、前市長にあっては、議会、議員らがどんなつもりでご自身の債務を放棄したのか、それを問うてみるべきでしょう。
住民をナメるな。
そしてこの国の制度をナメるな。
・・・もちろん、一方では、司法という場で首長の責任を争った我々としては、少しもやもやしたものが残ります。
そして、このような「類例のない」異常な地方自治の馴れ合いの実態について、誰からも断罪されないことになったからです。
しかし、そもそも、それが私たちの訴えであったかと改めて考えればそれはどうか。
私たちは、前市長に賠償責任があると訴えただけでしかありません。
別に何かの党派や思想信条に由来した思惑があったわけでもなかった。
そうした司法制度の政治利用の例はよくあるものですが、私どもの訴えは最初から違っていました。
「前市長は自身が行った不法行為の賠償をしろ」というだけに過ぎません。
そうであれば民主主義である以上は仕方がないことではないか、そうとしかできないのかも知れません。
本件住民訴訟の原告としては、本来の正義は果たされたと言えるでしょう。
司法としてはこのことを見越していたのかも知れません。
彼らはバトンをちゃんと渡した。
その慧眼にはつくづく感服せざるを得ません。
私たちが訴えたのは、前市長への債権があるという事実を認めるよう求めたことだったからです。
ようやく本件にひとまずの区切りがつき、これまで「声なき声」でどこからか支援していただいた方々に対しても(笑)、ここにひとまずの報告ができると思います。
そして、この自治体には、議会と首長との馴れ合いと、住民をひたすらナメ腐った腐敗があるということは、知っておいていただきたい。
きちんと投票をし、判断をしていただきたいと願うばかりです。
振り返れば、ここのブログでは逐一、進捗をご報告をしてゆくつもりではあったのですが、やはり影響を与える可能性のために多くのご説明を控えてこざるを得ませんでした。
現実に司法の場で争っている最中で、私どもの主張が「場外乱闘」のような主張となっては意味がなかったからです。
こうして、裁判が終結した後にしても、やはりまだ難しいものが残ります。
要は誰もが「必要とされることをすべきだ」、そういうことなのでしょう。
私たちも住民としてすべきことをしたというだけに過ぎません。
残念ながら、「終わり」などというものもありません。